某自動車教習所(自動車学校)は、「自動車教習所らしくない自動車教習所」です。独白の通貨(Mマネー)を発行したり、三万人規模の祭りを開催するなど、一見、自動車教習とは関係のない試みをたくさん行なっています。卒業生のなかには「卒業したくなくなる教習所」という人もいて、自動車教習場まつりの時期になると、毎年“里帰り”されたりもします。自動車教習場で友だちになり、卒業後も交流を続ける人たちが少なくありません。一種の「共同体」のような教習所ともいえるでしょう。このような教習所が生まれたのは、私が島根県、それも益田という土地で生まれ育ったことと無関係ではありません。私が自動車教習場を設立したのは一九六三(昭和三十八)年、四十歳のときです。じつをいうと、それまでの私は、自動車教習所の経営など、まったく考えたことがありませんでした。私の父は石見交通という地元のバス会社の創業者で、私も三十歳のときからそこで働いていました。石見交通は、いち早く米国製のバスを導入するなど、他のバス会社とはひと味違う、進取の気風に満ちた会社でした。そうした気風のなか、私も積極的に新しいことにチャレンジしていました。益田営業所の所長を任されると、郵便物を早く届けるため、広島行きの急行バスに郵便ポストを設置したり、バス通学する学生に報酬を払って車掌を務めてもらう、奨学生車掌制度を創設したりしました。それなりの評価も得られ、充実した日々を過ごしていました。ところが一九六〇(昭和三十五)年ごろから雲行きが怪しくなります。当時の日本は六〇年安保や三池闘争などの影響を受け、労働争議が全国で活発に行なわれていました。石見交通も例外ではありません。昔気質の人間である父は、労働争議にまったく理解を示そうとしませんでした。「労働争議など、けしからん」というばかりで、実質的な交渉役は、当時、専務だった私の兄でした。兄は労働運動に理解のある人間でしたが、思想的には当時の言葉でいう「総評(日本労働組合総評議会)系」でした。組合のいうことをよく間いて経営を行なおうというものです。一方の私は、どちらかというと「同盟(全日本労働総同盟)系」で、経営者と労働者は対等の立場で、一緒に努力して会社を運営していくべきだと考えていました。当時の私は一営業所の所長にすぎず、専務である兄とは立場が違います。それでも私が同盟系だとわかると、私を支持しようとする組合が新たに生まれ、会社が大きく二つに割れてしまったのです。
[関連情報]
東京都の自動車教習所コヤマドライビングスクール
http://www.koyama.co.jp/